昭和40年01月05日 朝の御理解



 朝晩の御祈念をさしてもらう時、なかに最後に天地書附を奉唱いたします時、私は二回の奉唱を、一回は自分の心の中に、神様がじかに私の心に染みいるように、染み込むように、言うて下さっておるというような気持ちで、お唱えさせて頂きます。一回はどうぞそう在らして下さいという願いを持って、神様にすがる気持ちで、お願いさせて頂きます。ですからその時の姿勢が違う。
 私は神様から厳かに、私の心の中に「生神金光大神 天地金乃神 一心ニ願 おかげは和賀心にあり」というお言葉を私の心の中に染みいるように下さっておるという実感で、拝礼の姿のまま、礼拝の姿のまま、その事を唱えます。次の神様にどうぞそう在らして下さいという願いの意味で、お縋りする様な気持ちで、当たり前の姿勢でに戻って唱えさせて頂きます。
 私がね私がここで、ほんとに今日もどうぞ、和らぎ賀ぶ心でおかげを頂かせてもらわなければです、沢山の人が助からんのです。私自身がそういうひとつの責任がある。神様がここに沢山の信者氏子をお引き寄せ下さる。ね。お取次を願われる。そのお取次を願われる、お取次をさせて頂く私の心の中に、和らぎ賀ぶ心と反対の心があったんでは、皆が助からん神様にも通わん。私はそんなふうに思うんです。
 それで私は今朝からもお夢の中に、今朝も丁度目覚ましのおかげを頂いたのが、四時でした。様々なその今年の私の信心の在り方について下さるんですね。もうあらゆる角度からいわゆる下さるんです。そして最後にね『何か小さい、この子供に頭を撫でてから、こう、「大きゅうならんにゃ大きゅうならんにゃ、大きゅうなった」とか言うでしょう。ああ言う様な口調でですね「大きゅうなれ大きゅうなれ」と言うて下さるです』
 もう私はそれを頂いてからですね、ほんっとに椛目が大きゅうならんにゃいけんと。二、三日前の晩の御祈念に頂きましたように、いわゆる「大椛目」にならにゃいけんて。それには皆さんの一人一人がです、例えば大高芝であり、大福島にならなきゃならないと言う事。ね。甘木の平田さんあたりの事を、最近人呼んで大平田と言うでしょう。ね。甘木の事は大甘木と言うでしょう。ね。先生も親先生から、矢張りおお先生、だい先生と言うでしょう。
 私はその大が付くようなおかげを頂きたいと願うのです。いや神様の願いがそこにあるのです。そこで私がですねえ、ほんっとに小さい事の中にです、ごちゃごちゃ言うたり小さい事で心を汚したりしておっては、いわゆる和らぎ賀ぶ心どころではない、反対の心になってしもうては、皆さんのお取次のいわば邪魔になる。夕べ「獅子心中の虫」と言う事について頂いたんですけれどもね、私の心の中にいわば「獅子心中の虫」が住む事になる。おかげの邪魔になる。
 そこで今年は私は、まあ主だった方達に一人一人に、これはお願いしようと私は思っておるです。久保山先生を始め、久富先生。ね。ここで御用頂いておる古賀先生当りに、皆に頼んでおこうと。今年はもうあんた達に、私はごちゃごちゃ言わん事にすると。その代わりにこんな事こんな事、こんな事だけぐらいは、あんた達行じぬかせて頂かんといけんよ、信心頂いていかにゃいけんよていウ事を。
 一つの例をもって言うなら、例えば私がもし古賀先生にその、私の願いを言うならばです、ね、「古賀先生朝の御祈念だけは、私が出る前に出ておいで」て。私が言うんです。「あんたが御祈念前に出て来とると、とっても御祈念がしよいと私が。」ほんとにしよいです。こりゃ他のものが、例えこりゃいわゆる古賀先生だけに対する思いなんです。私は。ね。「古賀先生あんたが御祈念前に出て来ておるとね、私はとぉっても御祈念がしよい。もうそれだけで私が助かる事になる」と。
 私の心がもう座に着く前に、和賀心に成れておれれるという事。「あら出て来とらん」と言うだけで、私の心はまあ汚れはせんに致しましてもです、ね、その和らぎ賀ぶ心というものが生まれない。ええねあんたに二時から四時までの奉仕、これだけはきちっと勤めあげなさいよ。お広前で姿勢をくずす様な事はしなさんなよと。ね。あんたに例えば誰々先生当りがなさる様な修行を求めた所で出来んのだ。けれどもこれだけは、あなたに私が求めるのだ。
 これだけは椛目で私の信心を頂こうと思うならば、ここだけは頂いてくれなきゃいけんよと。ね。そして四時から先は、もうあんたの信心。あなたがそれはそこはどうあっても、私がそれによって心を汚す様な事はないだろう。これだけは椛目の信心を頂いくならば、行じぬかせて頂きなさいと。断食をしなさい水行をしなさい。どうじょああしなさい、こうしなさいとは、私は古賀先生にはそういう修行を求めず、只今申しました様な修行を私が求める。  
 今朝のお夢の中にです、一人一人に対して只今申しました事も、今日私が神様からお夢の中で頂いた事です、古賀先生に対して。そしたら頂く事がですね、『もう沢山な、沢山なこんなあの昔げんこつ飴というのがありましたよね。今でもあるでしょうか。うめばちとも呼びます。げんこつ飴と私共言いよりました。あのげんこつ飴を沢山にして下さってあるんですね。だから私が私に神様が大きゅうなれ、大きゅうなれと。そのくらいの事で心を汚すなと。
 そのくらいの事でがちゃがちゃ言うなと。』私は最近これは、神様に願わせて頂く事はです、ね、例えば同じお気付けでも有難い意味あいにおいて分からせて下さい、というのが私の願いなんです。今年は特にです、だからいわば『甘いげんこつ』です。ね。言うならま痛くないげんこつです。苦しくないげんこつです。そういうハァーこりゃ神様が『甘いげんこつ』下さりよるなあと気付いたら皆さんどうぞ、例えば皆さんの一人一人に懸けられておる所の願いである、願いを自分が行じてはいない。
 もうこれは決して難しい事ではないです。一人一人に求めたもう修行というのは。成程、それだけの事ぐらいはやり抜かなければです、ここで信心を頂いておる値打ちはない、ここで修行をさせて頂いておる値打ちはないと言う様な事なのです、ね。ここにひとつ皆さんが、どうでもこの事だけは思い込んで頂きたいのですけれどもね、ここにご縁を頂かれた方はです、ここで信心の稽古をなさる方はです、ここで徳を受けようおかげを受けようと思う人はです、私と交流なくしておかげは頂けません絶対に。ね。
「またあげな事しよる。またあげな事言いよる」と言う様な時にです、私と皆さんとの間に、いわばこう絶縁状態になる時です、おかげの交流して来る筈はありません。ね、本当のおかげが交流するためにはです、私と皆さんがどぉうでも交流しよらなければならない。例えば只今申しますように、古賀先生がね朝の御祈念<に出て来ておった。もうそれだけでもうそれこそ朝から、ずっと古賀先生と私が通うです。まあそう言う様な事が、ここ十四、五日出来ないんですね。
 昨日でした。お食事の時に古賀先生が、「先生久し振りで神様に、お知らせを頂いた」と言う。これは私と古賀先生だけの事じゃないですけれどもです、ね。それが成程という事を合点して頂くために、なら古賀先生を例にとって、いっつもお話しするんですけれども、ね。私が頂いておる様なものが古賀先生も頂けてくる。交流するからなんです。ある人の名前をもうやさしゅう、やさしゅうひらがなで頂いた。
 ひらがなでご心眼に頂いたと。「も久し振りで頂いてから、途端に先生有難うなりました」とこう〔言う〕。ね。私はその時有難いなあと思うた。私と一時間ばっかり前に私と古賀先生とが交流しとった事があったんです。そりゃ昨日私は申しませんでしたけれども、有難いなあたったこのくらいな事で、このくらいな事で古賀先生と私が交流しておれば、神様はもう早速おかげをやさしゅう、やさしゅうひらがなで下さっておると言う事。と言うのはどう言う事かと言うとですね。
 昨日ここで御神酒を頂いた方達が次々とあったんですね。それでこの私は皆さんね、もうこのろくそな事が大体嫌いなんですよ。それがストーブの所に居りましたが、あの杯洗とそれから御神酒の入っておるあれが、こうあっち向きこっち向きしておった。あちらから出てきてから、それを私のいわば気分に合うように、きちっとしてあちらへ下がった。恐らく先生が気持ちの良かごとと、いうようなもんじゃなかろうけれども、いつの間にかそのそれがこれ信心になってる。
 「あぁおかげ頂いた」もそげん時は私は心(しん)から神様にお礼申し上げます。それが一時間前でした。あぁたったささやかなあれだけの事で通うのですから。それだけの事で通うのですから、難しい事はないでしょうが。一時間後にはもうお知らせを頂いておる。ね。皆さんが私の心の中にです、ね、例えばどの様な事があっても、私はびくともせんというか、自分の心を汚しもせなきゃいらいらもせんと。なってしまえばまた別です。けれども私のその心の中がです。
 「もこの人ばかりはもうほんとに、まあだそげな事が分かっとらんじゃろか」と思っただけで私の心が乱れる。ね。それが「まあだそんくらい分からん、分からんはずだ」というのが分からんのは、ひとつも汚れはしませんけれども、ね「もうあんた椛目に何年通うて来よるとねて。何年私の話を頂き続けとるとね」と言う人がです、それと反した時私の心が、どうしていつまでも分からんだろうか、と言う様な事になると言う事です。そこには交流の、いわば絶縁状態という事になってくるんです。
 私が朝晩に天地書附を奉唱させて頂く、その精神を皆さんがです、皆さんの精神として下さってです、ね、そしてこれは私の持ち場これは私の立場から、これだけは私の持ち場であり、これは私の修行であるというものをです、ね。私はがちゃがちゃ今年は言わんから、皆さんでここだけは言われんからと言うて、よい気になり言われんからと言うて、腰掛ける頭に乗って、修行をおろそかにする様な事のないような、ひとつおかげを頂いてもらいたい。
 もしそれであったら、神様が沢山甘いげんこつを用意しておられるから、甘いお気付け「お気付け」とこう頂いたら、そこに姿勢を正していくという信心をして頂きたい。私はもう限りなく今年は限りなく大きゅうならして頂きたいと思う。ね。その大きゅうならして頂きたいのが、些細な事に私がガタガタ言うておる様な事では大きゅうなれないと思うから、ね、愈々大きなおかげを頂くために、愈々私が大きゅうならして頂きたいと思うから、皆さんにも只今申しますような。
 そう言う積りで信心を進めて頂きたい。ね。甘いげんこつが沢山に用意してあるから、神様がです、ね、やさしゅうやさしゅう、言うならば古賀先生が頂いとるご心眼じゃないけれども、やさしゅうやさしゅうお気付けを下さるから、ねえ「ハァ神様がお気付けを下さりよる」と思うたらです、信心を正していき、姿勢を直して、自分が頂かなかればならない持ち場であるところの修行にです、精進させて頂くように、おかげを頂いていかなければならん。おかげを頂いてほしい、頂いてほしいと私は思うのです。
 どうぞそんな訳ですから、この事は皆さんに、また聞いて頂こうと思います。今朝お参りしあわせておる方達に、私の今年のね愈々私自身が大きゅうなりたい。神様は大きゅうなれ、大きゅうなれと言うて下さるから、本気で大きゅうならして頂く事に精進いたしますから、ためには皆さんもそこん所の協力をして下さると言う事を、皆さんの信心となさったら、愈々有難いおかげになってくると私は思うのですね。
   どうぞ。